変わる事と変える事

他人を変える事は難しい。自分を変える方が余程簡単だ。

たびたび使われる言葉だけど的を射ている。
当たり前にして奥が深い。

自分を変える事ってそんなに容易じゃない。人に言われた方が頑張れるって人はたくさんいるんじゃないだろうか。それほど、人間は外的刺激に弱く社会的に良いとされる行動を行う事によりアイデンティティーを保っている側面がある。要は人から好かれたいって事だよね。

ふと思ったのです。

どうも憎めない奴とか、わがままなのに愛される奴とか。
こういう人達は、他人から見て分かりやすい。ぶれる事が少ないから余計な心配や考えを巡らせる必要が無く、社会的に安全な人なのだと感じ親しみを持つのではないだろうか。

この能力をカリスマという形で昇華させると、ベンチャー企業の社長になったりNPOの代表になったりという事が自然とできるのではないかと感じるのです。

やりたい事をやっているので、本質的なぶれは無く、自分を変える必要が無い。でも、周りに集まる人は、その影響を受けて自分から変わっていく。つまり人を変える事が出来る人って事ですよね。自分を変えるより人を変える方が楽な人もいるという事になりそうです。

 

大半の人はカリスマの影響範囲はごくごく狭い範囲だとは思うのですが、自分の芯を作る事によって、自然と人を変える事が出来る人になる事が出来ればすごい事なんじゃないかと思います。

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ダイバーシティ多様性)という言葉が流行っているのですが、分かりにくい言葉で分かりにくい内容を議論していてらちがあかない気がしています。

女性とか障害者とか括っている時点で多様性とは言わないんじゃないかなと。ごちゃ混ぜにした状態がどれほど混沌としていて、それに対して如何に新しい方法を考えられるかが大切なのでは。それこそ自分は何が変われるのかを考える事なんじゃないかと思うのです。特定の属性を括って議論しても新しい属性の括りが出来たら一から考え直しになっちゃうのでは意味ないと思うし。

 

 

 

誉められる事と、怒られない事

誉められる事と、怒られない事を天秤にかけたなら・・・


「10回誉められて、10回怒られる」事と
「1回も誉められなくて、1回も怒られない」事のどちらを選ぶだろうか。


今の自分は、1回も怒られないように先読みしながら生きているような気がしてならない。リスクをできる限り減らして、つらい思いをしないように生きているような気がする。

本当に自分の人生と向き合っているならば、10回誉められて、10回怒られて、怒られた10回分を20回誉められるための力に変えるんだろうと思う。

いや、誉められたいという事を考える必要はないと思うから、みんなが喜んでくれる事に喜びを感じるのだろう。

他人からの影響は、詰まるところ人生にとって間接的な事。自分は自分しか動かせないんだから。


逆に誉められもしない、怒られもしない人生の詰まらない事。ドラマみたいな事はないというけれど、確かにその通りだけど
人と関わらなければドラマは発生しないんだから。相手の感情を動かさなければ、相手は何もしてくれない。

怒られないように生きるって、とても難しいのに誰も誉めてはくれない。
「怒られないように生きる事が当たり前だから」他人を傷つけるような行動を起こすべきではない。
そうなんだけど、最初はそう思わなくても、話をしているうちにぶつかって相手を怒らせるなんて事があった方が良いと思う。ぶつかる事で得られる事も多いのだから。
少なくとも何を言ったら、この人を怒らせてしまうのか という事を把握することくらいはできるだろう。逆にどうすれば怒らせないか更にはどうしたら、喜んでくれるかを導く事ができるかもしれない。

善意も悪意も。

善意も悪意も。


特に仕事に関する事については、感情的な要素が入らないように気をつけている。

依頼する事も依頼される事も何かしらのコスト(会話するとか、メールするとか)を発生させているので、それに見合う何かを帳尻合わせする必要がある。


依頼者は自分に何を期待しているのか、依頼者が最大限メリットを出せるにはどのように応えたら良いか考えるようにしている。これは善意ではなく、win-winの関係を築きたいから。自分が持っている知識の中から、使えそうなものを提供するようなものと言えると思う。


しかし、こういう事を考えると、喜んでくれる場合と、余計な話はいらないと言う人がいる。受け取る側は、自分の尺度に合わせて、善意か悪意か決める事になる。えてして、「うまくやっといて」的な依頼をする人(何も考えてない人)は喜ばない。どうやら、面倒くさいらしい。やりたくないから、細かい事を言っているように捉えるみたいだ。


結局は思考停止に陥っているという事に他ならない。何でもやる前にはある程度考える事が必要なのに、それすら疎かにしてしまうから。その思考を引きずったまま、善意、悪意という尺度に置き換えて話を纏めてしまっているように見受けられる。

どんな事でも、善意と悪意は相手側の受け取り方次第で変わってしまうので通り一辺倒な接し方では良くないのだ。人を選んで話し方を変える必要がある。短気な人、気長な人、大雑把な人、几帳面な人 などなど、その人の特性に合わせて話をする必要がある。
相手の事を考えてから話すというコミュニケーションの基本的な手法だ。きっと、リア充は自然にコントロールできる人なんだろう。


逆の立場を考えたとき、もしかして好かれている?もしかして嫌われている?という感覚の大半は自分の思いこみでしかないという事だ。相手はフラットに話している事が大半だろうし。


ともあれ、いつも好かれていたいものだな。



死ぬ気で取り組む事

死ぬ気で取り組む事

自分で死んでしまう人は、死ぬ気では頑張れないし、むしろ死ぬ気じゃ無いと思う。死にたい訳じゃなく、終わらせたい。

何か頭にこびりついた思いを消したくて。もしくは、身体的な苦しみを終わらせるために。本人の見つけた一つの解がそれだっただけで。


「死ぬ気で取り組めば何か成果が出せる。」のは、「本気で(何かを達成するために)生きたい」と思った人にしか通用しない言葉なんじゃないかな。


生きたいのか、死にたいのか、分からなくなって「何か」を終わらせたいと思っている人は、その「何か」さえも分からなくなってしまっているのかも知れない。


……

「生きたい」という、本能さえあやふやになって来てるなんて、人の変化のスピードは、異常なのだと思う。神様が増えすぎたら、自動で減るように仕組んでいたとするならば、手のひらで動かされているだけかも知れないけど。



本当に大事な事だけ

本当に大事な事だけ

本当に大事な事だけしていたら、無駄は無くなるのだけど、それに拘ると、生産性をあげないと気が済まなくなる。

人との関係性で難しいのは、ある人にとってはとても重要で、一刻の猶予も無い場合(本当にそうかは、本人次第)に、知らん顔できない事。もし、自分が逆の立場になった時、知らん顔されたなら先に進まなくなってしまう。

結局自分の保身に繋がっているとも言える。

意識が高い若者は、自分で何とかしようと精一杯努力をする。そのせいで、行き詰まって助けを求められない事がある。上司がうまく助けてあげる事が必要なのと、本人がメンターを作る必要がある事を自分で理解する必要がある。

意識が低い若者は、言われた事しかやらない。言われた通りにやるという事が、どれだけ付加価値の低いものであるかわかってくれない。言われた通りにしかできないなら他の人でもできる可能性が高いのだ。言われた事をどうやって解釈するかによって、付加価値のありなしを決められてしまう。

若干逸れてしまったが、本当に大事な事をお互いに瞬時に共有する事ができれば、多くの無駄を削減する事ができるのだと思う。
つまり、お互いに本当に大事な事を明らかにする能力が高くなれば、無駄に依頼することもなくなるし本当に必要な時だけ助け合う事ができるようになるから。

生産性が高く、活気に溢れている職場は、自分の成すべき事が与えられた事だけではなく付加価値を生む用に常に考えるし、それを高めるために必要な事をもっとも重要な事として判断できる能力も養われていると言うことなのだと思う。

伸びるベンチャー企業では、そのプロジェクトとしての方向性、最重要事項、相互の関係性が熟知できているのだと思う。

そんなプロジェクトを作ってみたい物である。

電車に揺られて

電車に揺られて

小一時間程度の距離ではあるが、客先への外出。電車に揺られていると様々な人がいる。大半はスマホを片手に何かをやっている様子。時より子供ずれの親子が乗り込んできて笑顔で何かをしゃべっている。

通勤電車というか、ローカル線であれば当たり前なのだが、乗っている客が、同じ方向を向いて、目的地へ向かうという共通の目的を持っているのだなと思った。考えると意外にすごいことだと思う。最終的な目的地は違うにしろ、しばらくの間は限定的ではあるものの目標を共有している。大人も子供も関係なく、乗り合わせた人の大半が同じ方向に進もうとしているのである。

必要な事さえあれば、みんな同じ目標に向かって進むことができる。しかし、同じ目的を持っているからと言って、そこに向かうまでのプロセスは全く異なる。

仕事のやり方に置き換えると、同じ目的地(業績アップとか)を向いていても、そのアプローチは大きく異なるのに、お題目だけ掲げた○○方針がどれだけ有効なのか甚だ疑問符がつく。目的地をおいたリーダーが目的地の場所や風景を具体的にイメージできるようになれば、どんな手段を使ったら楽しく向かう事ができるのか、選択肢は決まってくるのではないか。その手段が、徒歩なのか車なのか電車なのかわからないが、途中から手段を変える事もできるだろう。


迷子にならないように地図は必要だけど。

考えようとする心

考えようとする心

正直、ホワイトとは言えない会社に勤めている。ちゃんと給料を貰っているから、ブラックとは言えないがかなりの過重労働を強いられている。IT系なら当たり前と言われるのでブラックとはとても言えない。

言わずもがな、知り合いだけでも何人もの人がメンタルを害し長期休暇を取り復帰しているという状況にある。実際には辞めてしまった人も多いのだが、自己都合で退職となるため表向きには伝わってこない。会社に来なくなると、総務部付属になるので、産休か休職かの違いは透けて見えてくるのだが。

メンタル関係の休職から復帰した人を見ていると、同じ過ちを繰り返す人が多い。この連鎖を繰り返していると退職に向かって一直線である。身近な人を分類してみると、考えすぎか、考えなさすぎか大きく分かれるような気がしてならない。つまり少し極端な性格というか。

元々は過重労働が問題であるため、個人的な非は全くないとして考えた場合、考えすぎの人は仕事の結果に対しマイナスのイメージを強く考えてしまい、自分の中でいっぱいになってしまうように思われた。逆に、考えなさすぎの人は、やらされるがままに仕事を進めてふと立ち止まった瞬間に、自分が何をやっているのか納得できなくなってしまうというように思われた。

疲労が蓄積しない間は、何とかなるのだが、疲労が蓄積していくことで、頭の疲労も蓄積していくように思われる。


詰まるところ、状況を正しく認識して、よく考えることが必要なのではないか。自分が納得して働いているか、それとも無理矢理働かされているかにより、受け取る疲労も大きく異なると感じる。

しかし、悪いことに、納得するまで考えるという事が、自分をだますことになっている場合が多いことは否めない。

自分しかできない
  → 本当は他の人でもできる。

今日は休めない
 → 生産性が悪いのを時間でカバー。

必ずやる必要がある
 → 付加価値の押し売り。
      あれば良い程度のものは無くても良い。

そして一番良くないことは、自分にマイナスである事、自分を否定する事から目を背ける。

今までやってきた事を無駄な作業だったと思いたくないから、やり方を変えられない。
自分以外の誰かができるようになってしまったら、自分の価値が下がってしまう。

自分を大事にしているように見えて、一番自分を傷つけている事に気づいていない。これでは、どんどん自分が傷ついてボロボロになるばっかりだ。
考えすぎている人も、考えてなさ過ぎな人も根底は同じで目の前の状況を正しく認知できていないという所から始まっているように思われる。

価値のあるものに力を使って、価値のないものに力を使わないのは当たり前。力のコントロールができるようにならないとうまく行かない。


どうでも良いと感じる仕事を依頼された時、ドッと疲れがでる気がする。
人間って大切に思うことを、しっかりやる事が好きなのだ。大事な事をする時間は、何があっても惜しくない。疲れも感じないのだから。