あの人のために頑張る自分

あの人がいるから頑張れる、あの人のためなら多少の苦しみは乗り越えられる...

誰かのために何かをやるって事は、少なくとも好意を受けたいためだろうと思う。(仮面を付けて嫌々やっている人は除外するとして)「あの人のために」と思って行った行動に対して、自分で自分に評価を下す事はあるだろうか。きっとあの人は喜ぶだろう。きっと感謝されるに違いない。あの人からの良い評価(想像)を自分自身への評価へ投影していないだろうか。そして、あの人から良い評価を受けられなかった場合は、一転して自分自身に対して悪い評価を持ってしまう。若しくはあの人に対して、悪い評価を下してしまう。

何が良かったのだろう、何が悪かったのだろう。感情だけの話なのだろうか。あの人にとっては悪い事だったかもしれないが、自分にとっては良い事をした事には変わらない。自分の評価を下げる必要はない。(最初から悪い事だと思ってやった事は除外するとして)相手から向けられる感情という一つだけの評価基準により善し悪しを決めてしまっているから正しい判断ができないのではないだろうか。むしろ自分が取った行動に対して後ろめたい、言い訳じみた何かがあるのならやらない方がマシである。


お年寄りに席を譲ったら、お年寄りに怒られてしまった…良く聞く話である。

結局、千差万別な人々を相手する以上、猫の首を掻いてあげてゴロゴロと喜ばしたり、犬と一緒に遊んであげたりするような単純なものではない(犬、猫だって気分によっては反応が違うだろうし)。色々な偶然が重なって、結果が出るという事である。

 

ある人の愚痴を聞いてあげていた。余程たまっているのであろう、自分は合いの手を入れながら耳を傾ける。本人は如何に自分が頑張っていて、他の人が頑張っていないかを吐き出している。その人の話を聞いていて、助けてあげられない自分がダメなやつだと思ってしまった。相手からの評価(想像)を自分自身の評価にすり替えているんじゃないかと思ったんだ。一言も、ダメなやつなんて言ってない。むしろ愚痴を聞いてあげるだけ、優しい人物であろう。自分として客観的に評価できていないから、自分の事を悪く思ってしまう。こういう時は悪く思う方が謙虚で可愛げがあるし、他者から批判を浴びにくい。本当はそうじゃないんだよな。評価は可もなく不可もなくが正解。ただ話を聞いてあげただけなんだから。

正しいと思った事を実行できないというのは、こういう所に騙されているんじゃないかと思ったのだ。

 

そして、あの人から好意を受けたいのであれば、自分自身の魅力を上げるしかない。あの人が本当に求めているものをちゃんと考えてあげる事とそれを話し合える事求められていない事をいくら頑張っても無駄なのだ。自分自身の評価を、あの人が見た時の評価にすり替える事は出来ないのだから。