何も考えてない事と素直な事

何も考えてない事と
素直な事


誰かに何かを頼んだとき、リクエストした通りに実行して貰えたら、その人に対して満足すると思う。少なくとも、不快には思わない。

よく周りを見ると、「何で言った通りにやらないんだ」と言われる人が少なからず存在する。

素直に考えるなら、言われたとおりにやれば結果は出るだろう。言われて無いことは、やらなくていい。


よく周りを見ると、「そんな事までリクエストしてないよ」と言われている人もいる。


素直に考えるなら、あれこれ心配しないと後から問題になるから、ここまではやっておこう。



自分に素直になれば、自分の思った範囲で物事が進んでいく事になる。問題は素直にやる事が、何も考えていない状態になってしまっていること。本当に素直になるのであれば、最初に頼まれた事のイメージを共有しておく事なのだろう。

リクエストに対して期待以上の成果を出す人は、素直に(フラットに)依頼者が何を求めているのか考えているのだと思う。


楽しみが一つ減った。


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先日、いつも楽しみにしていたブログが閉鎖になりました。
いつかは無くなるものだとわかっていても寂しく感じます。


それなりに不自由の無い生活をしていると、何でも欲しがってしまい、手に入れると言うことが自分にとってどういう意味を持つのか、しっかり考えなくなっている気がします。

得る事の喜びと、失うことの辛さを忘れてしまっている気がします。

本当に心が欲しているものは何か、歩きながら見極められたら良いなと思う。





世の中のせいなのか

世の中のせいなのか

日本の自殺件数はこんなに深刻

数字が全てを示しているとは思わないけれど、あまりにも悲しい数字ですね。そして、この記事を見て納得してしまう自分がいる。


集団の中にいるから、自分を見失うのか、集団から外れているから、自分を見失うのか…
人それぞれで、いろんな理由があると思うけれど、死ぬほどの理由があったか疑問に思う。


むしろ、理由を後付けしたのではないかなんて思ってしまう。死んだ後の方が苦しい可能性だってあるのに。


世の中のせいなのか。
自分自身の考え方のせいなのか。

死ぬくらいなら、好きなことをやりたいと思えれば、死ななくてすむのでしょうか。死んではいけないという、世の中の教えに従えば、死ななくてすむのでしょうか。
生きる価値が無ければ、生きていては、いけないと思ってしまったなら、途端に自分の価値を探してしまう事になってしまう気がする。

それは、身近な他人と自分を比較した結果でしかないけど、それが全てだと勘違いしてしまう。自分の価値は自分で決めると思ったならば、自分が生きている事が最大の価値だと思う必要がある。


今の世の中では、自分を棄てることが、簡単な事に思えるのだと思う。誰かの言いなりになって動いたり、世間の評判に従ったり、自分を低く見せる事で、他者の批判を避けようとしたり。

そして、世の中の圧力からは逃げられない。だから、楽観的に考えて、避ける事を考えた方が良いと思う。戦うでもなく、逃げるでもなく。


子供の頃の教えが、大人になりきれなかった人達を殺しているような気がする。

本当の「世の中」は、曖昧で、脆弱で、自由だって思えるようになりたい。自分は自分なんだと、思えるようになりたい。

考えてない

多忙ゆえに、日々頭を悩ませている。ふと我に帰ると、頭を使ってない事に気づく。
目の前にあるタスク、調整する事すら煩わしいタスク、面倒事や実作業などなど…

考えたら負けという思いと、考えないと片付かないという思いと。

モヤモヤしている自分なのに、携帯でニュースを見る事は忘れない。あたらしく情報を手に入れようとしている。溺れている状況なのに、余計な事まで入れようとしている。

つまり、何も考えてないって事なんだよなと思う。インプットばかり増えて、アウトプットに繋がらない。積ん読よりも質が悪いんじゃないかな。


目の前の事を捨てる勇気を持つのは難しい…


ちょっと考えよう。
我に帰ろう。


消えてしまいたいような。

心が疲れている時は、消えてしまいたいと思う事がある。

自分がちっぽけで、何の役にも立たないような思い込みに苛まれる。何もしたくない、誰とも話したくない。自分は好かれてない…

ネガティブの塊になる。


ネガティブの本質を考えたとき、日々の忙しさから肥大化した心のコントロールを取り戻したいという気持ちなのかと思う。

何もかも投げたしたいのではなく、
自分のペースでやりたい。
そういう事なのかなと。

後回しにしたり、棄てたりしながら
自分の中に落とし込んで、バランスを
取っていく。


何はともあれ、毎日は動いていく。
終わりは必ずある。

誰かの助けを貰いながら、
今日も頑張ってみる。

試験会場にて…

試験会場にて…


情報情報技術者試験というものがありまして、多数の受験生が訪れます。

恐らく試験資格に制限はないと思います。かなりの年配者から20前後の若者まで…本当に幅広い。

皆さん何かしらの思いがあって受験されていると思うのですが、自分は「会社から言われているから」と言うのが大きな要素です。昇進の条件だから取得を促されるわけです。


資格と免許は大きく異なっていて、(資格と言う名前がついていても、事実上、免許みたいなものもありますが)
免許は持っていないと行動に制限がかかる場合がありますが、資格はそういう事が少ないです。何かしらの基準となって、人々を選別する事に使われる事が多いと思います。


資格を持っているのが偉いとか、優秀とか判断される事が多く、客観的な観点では間違ってはいないと思います。


でも、仕事ができるとか、能力があるとか…本質的な所は資格とか関係無いんですよね。何か差をつけるならば、資格と言う基準を当てはめてみるという事なんだと思います。


自分の力を試すために、資格をとる人もいると思います。それが正しい姿なのだと思います。しかし、他の誰かと競争するための要因でしか無ければ、無駄な時間を過ごしている事になりかねない。
やりたくない事に多くの時間を割くなんてナンセンスだし、覚えたこともすぐに忘れてしまうように思える。



なんて事を考えながら、自分も参加していました。


まぁ、できる人は仕事もちゃんとやるし、資格も持ってるんですよ。やっぱり自分のために頑張るしか無いですね。

仕事で怒鳴る必要があるか

仕事で怒鳴る必要があるか。

職場では、大なり小なり小言やお説教が聞こえてくる。その中で大きな声で怒鳴る方がいる。

何故なのか、うまく理解できない。

怒鳴るというのは、感情が押さえきれない場合や、相手を威圧する際に起こる現象(?)だと思っている。
「対話しても意味がない」とか、「自分の事を認めて欲しい」とか…悪く言えば「ワガママを通したい」とか。

性格にも影響されることなので、それが個人のポリシーならば、一定の理解をしてあげたいと思う。もちろん、理屈が通っている事が条件になるが。


自分は穏健派のため、燃えさかっている人を見ても、それを飲み込んだ上で何事もなく接する自分がいる。相手に釣られて声のトーンが大きくなる事は多々あるけれど。
良く言えば大人の対応なのだろう。悪く言えば真剣さが足りないのだろう。
仕事の事で怒る事が少ない。怒ったとしてもポーズにすぎないことが多い。


怒りや不満のコントロールは、非常に難しい事だと思う。


怒鳴るくらい「真剣に考えている」という考え方もある。どうしても曲げることのできない思いや、目に余る理不尽な状況を打開したいという前向きな思考による場合もある。



ポジションか、ネガティブか。

そこが重要なんだろうと思う。
どうやって、困難を解決するかを突きつけている時は、思った事をぶつけて行くべきなのだろう。


実際には、ネガティブな事が大半ですけどね…