会社の意思と上司の意思

とある方の言葉。「あなたは誰に評価されたいですか。」

会社の中に居ればおのずと、会社の意思に沿って人生のレールを引かれ、特急列車かはたまた鈍行列車か、はたまた機関車に引かれる客車になって各々過すことになります。(途中で壊れちゃったり、修理中だったりするのは良くある話。)レールの上を走るためには会社からの意思を尊重する必要が有ります。会社に縦ついて出世も昇給もありません。

会社の意思とは何ぞや…という事になるのですが、ウチは所詮、アクティブな事は出来ない会社で有るからして、お偉い様は何やら経済の本とかプロジェクト管理の本とか引っ張り出してきたような内容をさも自分が考えたかのように語り、会社の方針だ、会社の意思だとおっしゃるわけです。それはそれであながち間違いではない。奥底にある本質が、正しく伝わるので有れば。

 

会社の意思、本心はどこにあるかって、勝手に儲けてくれる人材、チームを残しておいて、不採算や先見性の無いチームを解体して、あわよくばリストラしたい…というようにしか思えません。なぜなら外注先はいくらでもあるから。社員と同じ給料で雇っても成り立つような環境にあるから。

 

会社が守ってくれるなんて言葉をたまに聞くのですが、意味がわかりません。守ってくれたとして上司です。会社という何かが、個人に対してやってくれる事は、給与の支払いが主な内容でしょう。

 

末端であっても・・いや、末端に居るからこそ上司との関係性が途方もなく重要です。会社の意思と上司の意思が一列になるポイントを探して撃つ・・・・
そんな生き方をしないと、出世も昇給も見込めない。
会社に評価されたい、上司に評価されたいなんてのは幻想ですよね。自分自身で相応と思った費用が給料として還元されているかを正しく見極める事が出来るかどうかがポイントだと思います。自分の給料が上がったのは上司が評価してくれたからだ…なんて思った日には自分の実力を磨くよりも、上司におべっかを使った方が良くなるじゃないですか。

最後は自分自身が自分に給料を決める事が重要で、自営の方々は自ずと体感されている事なんだと思います。会社にいる多くの人たちが、意識改革をすれば、期待すべき会社の形になると思うのですが。

あの人のために頑張る自分

あの人がいるから頑張れる、あの人のためなら多少の苦しみは乗り越えられる...

誰かのために何かをやるって事は、少なくとも好意を受けたいためだろうと思う。(仮面を付けて嫌々やっている人は除外するとして)「あの人のために」と思って行った行動に対して、自分で自分に評価を下す事はあるだろうか。きっとあの人は喜ぶだろう。きっと感謝されるに違いない。あの人からの良い評価(想像)を自分自身への評価へ投影していないだろうか。そして、あの人から良い評価を受けられなかった場合は、一転して自分自身に対して悪い評価を持ってしまう。若しくはあの人に対して、悪い評価を下してしまう。

何が良かったのだろう、何が悪かったのだろう。感情だけの話なのだろうか。あの人にとっては悪い事だったかもしれないが、自分にとっては良い事をした事には変わらない。自分の評価を下げる必要はない。(最初から悪い事だと思ってやった事は除外するとして)相手から向けられる感情という一つだけの評価基準により善し悪しを決めてしまっているから正しい判断ができないのではないだろうか。むしろ自分が取った行動に対して後ろめたい、言い訳じみた何かがあるのならやらない方がマシである。


お年寄りに席を譲ったら、お年寄りに怒られてしまった…良く聞く話である。

結局、千差万別な人々を相手する以上、猫の首を掻いてあげてゴロゴロと喜ばしたり、犬と一緒に遊んであげたりするような単純なものではない(犬、猫だって気分によっては反応が違うだろうし)。色々な偶然が重なって、結果が出るという事である。

 

ある人の愚痴を聞いてあげていた。余程たまっているのであろう、自分は合いの手を入れながら耳を傾ける。本人は如何に自分が頑張っていて、他の人が頑張っていないかを吐き出している。その人の話を聞いていて、助けてあげられない自分がダメなやつだと思ってしまった。相手からの評価(想像)を自分自身の評価にすり替えているんじゃないかと思ったんだ。一言も、ダメなやつなんて言ってない。むしろ愚痴を聞いてあげるだけ、優しい人物であろう。自分として客観的に評価できていないから、自分の事を悪く思ってしまう。こういう時は悪く思う方が謙虚で可愛げがあるし、他者から批判を浴びにくい。本当はそうじゃないんだよな。評価は可もなく不可もなくが正解。ただ話を聞いてあげただけなんだから。

正しいと思った事を実行できないというのは、こういう所に騙されているんじゃないかと思ったのだ。

 

そして、あの人から好意を受けたいのであれば、自分自身の魅力を上げるしかない。あの人が本当に求めているものをちゃんと考えてあげる事とそれを話し合える事求められていない事をいくら頑張っても無駄なのだ。自分自身の評価を、あの人が見た時の評価にすり替える事は出来ないのだから。

自ら変化するか、変化を受け入れるか、変化に流されるか。

革新系の有名人、会社のトップ、意識高い系の上司、飲み会での会話…どんどん変化を受け入れていくべきだという考え方は一般的になっていて、良くも悪くも議論が分かれる所だが、結局はアプローチの差でしかない。


レールを外れたくない人、実は変わりたくない人でも、変化した方が良いというからタチが悪い。どう考えても精神的な閉塞感の打破と自身の安定が揺らぐ事に対する一種の精神的な防御では無いかと感じるような話をする人がいる。つまり自分が変化に飲まれつつある事を、あたかも自分から流れに乗るかのように話しているのではないか。本質は流れに乗りたくない。みんなが流れに乗った時、乗り遅れたくないと言っているにすぎない。先頭を切って変わろうなんてこれっぽっちも思ってない。

 

先の見えない未来を自分が変わっていく事で生き抜いていこうとする考え方が本当に変わっていくという事。圧倒的に自由で基本的に好きな事をやる。やってみて自分に向いているか向いていないか考える。割にあうか合わないかを考える。したたかさがあるという事なんだろう。このような変化をしていくためには強靭な精神力と体力が必要だろう。本人達は大した事はないと言うだろうが、世間体という精神攻撃や常識という監獄からの脱出という精神面、怪我もなんのその、病気をしても自分ひとりで戦える体力が必要である。もっとも、体調面については精神と密接な関係が有るものの、日本で有れば病院もしっかりしているので、体力面はそれほど重要ではないかと言える。背負っているものが無いというのも、重要である。年老いた親の介護や、幼い子供の相手をする必要が無ければ、変化を推し進めための足枷にはならない。

 

7割の人々は、変化に流され、2割の人は変化を受け入れ、1割の人は自ら変化するというような事なのかな(自分の体感的に…環境によって大きく異なる)それなりに
安定した会社に居るために、こんな割合なのかなと思うが、変化に流される人は、自ら変化しようとする人の足を引っ張る事が多いのが難点なのだ。自らルールを変えようとしないが、変わった途端に手のひらを返したような態度を取る。決してルールを変える側には回らない。ルールを変えようとする人を制止しやる気を削ぎ、安定をさせようと試みる…。

 

 変化に流される人は、言われたとおりにやれば良いと思っていて、みんなの意見が正しいと思っている。自分だけ不利益を被ると、平等じゃないと言いだす。変化を求められた事に対して、圧力をかけられていると感じる。
変化を受け入れる人は、言われた事の意味を考え本質を考えようとするが、全体意見には逆らわず、調和を目指す。変化を求められる事に対して、自分なりの考えを持っていてコントロール可能な範囲で自分の意思を伝え、できるだけ望ましい方向に近づけようとする。

 

結局、組織の中にいるならば、自ら変化する事は、自分だけ変化すれば良いという事ではなく周りも巻き込む必要があるので非常に難しい。仲間を作って変化をするという新しい形を作る必要がある。それが難しいので変化を受け入れる方向に傾く。

 

トップが求める変化が、長所を伸ばす変化なのか、短所を改善する変化なのか。短所をいくら改善した所で、長所を伸ばす変化には敵わない。長所の伸び代は無限だけど短所の改善は有限なのだから。むしろ短所を改善しすぎて、さらなる短所を生むことすらある。(無限に広がるチェックシート地獄は良い例ではないだろうか。失敗した所をチェックシートに追記していく事で、チェック項目がどんどん増えていき、最後には多すぎてチェックしなくなる…)

年度末という師走のような時期

年度末…社会人になってからというもの、この響きに良い思い出は無い。

年度が変わる前に、清算を〆なきゃやばいんだよぉぉ
納品終わった?売上あがんなかったらどーするんだよ。
年度末処理のため、システム稼働停止期間が設けられます

などなど

そして入社何年目が、ひとつ繰り上がる。
誕生日よりも歳を取った気分だよ。会社に居る時間の方が長いんだから。

 

毎年、毎年飽きもせずに同じ状態を繰り返してる。
一か月前から、”年度末までもうすぐなので~”というお達しが来るけど、"目の前が忙しすぎて見てらんないよ"という返しをし、ギリギリになって焦る。
人の異動についても同じだ。1週間前にしか正式に知らされないんだから、そりゃ忙しくもなる。いっそ会社を辞める人の場合は、数か月先から分かっているからなんとでも対応する事が出来るのだが(それも難しいと言えば難しいが)

 

会社員になると、年度で括るという概念そのものが、現在のニーズに合わない事は多いような気がする。いや、年度で色々な事が動いていて、その中で計画を立てて実行していくという事に対してそれ程の嫌悪感は無い。
何に違和感を感じているかと言うと、年度を跨いだ時点で去年の行いについては免罪またはリセットもしくは過去の事にするという卒業的な要素が含まれる事にどうもなじめない。どこかで〆なくてはならない。それは対外的に見ればヒツゼンの事なのだけど。

色々な事をごまかしながら年度を跨ぐという行為を行い、次の年度へ続けていく。ある意味連続性を途絶えさせながら、次へのステップに進もうとする。その時点では何も変わっていなくともステップが変わったように見せかける。。。
(年末、年始のテレビ番組も同じだけど。)

 

きっと、子供の頃から年度が変わる=何かが変わるという意識を植え付けられてきたせいなのかも知れない。でも、自分自身は何も変わらない。生きている事はひたすらに連続的でどこかに切れ目なんてない。むしろ社会的通念で動く年度なんて概念に縛られるものではないし誕生日ですら、他人と比較するための"年齢"が進むに過ぎない。

何で区切りたくなるのか…結局は人間は基本的に怠惰であるから、マイルストーンが必要だという事だと思う。なんでも緻密にしっかりやれる人であっても、スケジュールやマイルストーンという道標が無ければ自分がどこにいて、どこに向かっているのか分からなくなってしまう。便宜上決めた日付を使って色々な事を整理し捨てる事が必要なんだと思う。

明日からやろう、月末からやろう、来年からやろう、年度が変わったらやろう…
状況が変わっている事はあるけれど、自分自身はその時間を経過しても何も変わっていなだろう。でも、そうじゃなくて、決めた日や区切りまでに何をするのかを決める事が一番大事なんだろうな。変わるために準備できる事を考えておく、区切りの日から捨てるものを考えておく。何か新しいものを得るためには、何か捨てる必要がある。時間をストックする事は出来ないのだから。

事務処理とシステム化

エンドユーザが使いやすいシステムを作ろうとしたとき、どんな所に困っているのか、どんなインターフェースなら使いやすいのか一緒に考えていきます。

良いものを作ろう、使いやすいものを作ろう、フィットするものを作ろうと試行錯誤するのですが、事務系のシステムの最終形は“何もしなくても仕事が終わっていること“なんですよね。

事務作業なんて“くりえいてぃぶ“じゃないから誰もやりたくないし、稼ぐための仕事には直結しない。何か入れたら、ほしい答えが直ぐに出てくる、そんなシステムが欲しい。

現実的になかなかそうはならなくて、グーグル先生でさえも最適解をいつも出してくれる訳じゃない。事務作業ってなくならない。まさに仕事が仕事を生み出しているという話。

結局誰のシステムなの?っていうと、管理する人の為のシステムでしかないわけで、管理者がほしい情報を素早く出せるためにあの手この手を考えて作り上げる。
いろいろなデータを入れるための入り口のパターンを増やすことで、入力する人の負担を減らしユーザフレンドリーと表現する。でもフレンドリーと言ったって、面倒でやりたくない作業には変わらない。エンドユーザは交通費とか承認とかそういうものを手に入れるために仕方なくやっている。

結局何かを入力するよりもEXCELで必要な項目をコピーペーストしているのが一番楽なんだよな。わざわざシステムを立ち上げるのは確認する時だけにしたい。EXCELは入力データを作る事に関しても優秀。しかし、EXCELのお作法とか知らない人や、エラーチェックしてあげないとちゃんとしたデータを入力できない困った人もいる。たまーに本気で間違えることもある。だからこそ、システムを作って対話式に登録できる意味もあるのだけど。

本当に使いやすいシステムを作るという事は、すなわち運用を簡素化する事以外にないなと感じるんだよね。法律やら制度の求める内容に沿って考えて配慮する縛りが枝葉の縛りを増やして、間接作業をどんどん増やしている。

答えがある訳じゃないけど、向き合って行かなきゃいけない課題なんだろう。
人間はいつも楽をしたくてシステムを使い始めるんだから。
事務方の仕事をなくさないようにしつつ、入力する側の人間に負担がかからないように。

そして人を縛る作業から抜け出して人を楽にするシステムに。
システム導入の功績が、生産性の低い時間を削減できた事に対してスポットがあたるように。

この会社で働きたいか

最初は噛み合っていた話が、徐々に話がかみ合わなくなる事は無いですか。

そんな事が会社の後輩(ワーキングマザー)と意見を交わしている時に起こりました。

 

"仕事が大変だ、会社が守ってくれない"という彼女に対して、労基法を守らないのであれば会社の責任、上司の責任ではあると思うけど、何故そんなに働かなくてはいけないのかを質問したところ、客観的に見て理解できない回答が返ってきました。

 

・お金が無い
→旦那さまも良い給料を貰っている様子。共働きせずとも十分と思われる。

・今時は働く事が普通
→普通ってなんだ…多数決なのか?個人の問題じゃないの?
・会社は働き方の多様性を持たせる方向に向かっている。
→本当に優秀な人が辞めちゃうのが困るからでは?会社の方針と個人の事情とは全く関係が無く、会社として優秀な人材を引き留めたいという趣旨であって、優秀じゃない人は解雇したいというのが本音。個人と会社の関係性が上手くいかない事も当然あるし、会社が個人を助けるのではなくギブアンドテイクでしかない。

 

更に、仕事が忙しい分だけ他の人に頼めば良いのではないかという提案に対して、給料が減ったら別の仕事をしなくちゃいけなくなるから意味が無いという回答でした。

 

きっとどちらの立場にも共感される方もいる事でしょう。個々人の事情もある事でしょう。

 

でも最後まで曖昧で聞けなかった事。それは、自分の意思はどこにあるのか?って事。だって、もっと条件の良い会社があるかもしれないじゃん。この会社で働きたいという何か理由が無ければ、他の会社でも実現できる事でしょう。
本当にこの会社で働きたいって事なの?

この問いについては納得する解が有りませんでした。

 

声高に会社を批判して残っている人(自分も含めて)については、給料がそれなりに支払われているから仕事を続けているとしか思えない。それを認めない(認めたくない)人って結構いるような気がする。やりたくない仕事でもやってるって、見返りがなきゃできないでしょ。見合わないのに仕事している人は、本当に我慢強いと思います。逆に言うと他の仕事に行ったら給料も減る人。自分みたいに同じ給料が貰えると思えない年寄りやスキルの低い人は、相対的にあきらめてしまっているかもしれないですが。

 

今の自分に何が一番大事なのか考えて、会社で働きたい、しがみ付きたいと思っている泥臭い部分をはっきりさせないと、辛いばっかりだと思うんだよな。

 

自分はどうかと考えた時、それなりに給料を貰っている、苦しいながらもそれなりに楽しい。年齢的な問題で転職したら給料が下がりそう。
そして一番の理由…本当に何がやりたいのか見えてない。それを考える事が面倒だと思ってしまっている。それじゃ駄目なんだと分かっているけれど。

 

上司と向き合う

上司とは、どのような存在なんだろうと考えた時

自分の仕事を仕切ってくれる人
自分の悩みを聞いてくれる人
自分の査定をする人
などなど…

 

職場の数だけ、人の数だけ関係性があると思うのだけど、自分の身の回りを見渡した時の事を書いてみると・・・

 

上司に意見したくなる人は、上司が自分よりも優秀で有るべきだと思っているから。

上司に相談したくなる人は、上司が人として信頼できるから。

上司と話さない人は、上司が必要な人だと思っていないから。

 

と、考えていたのだけど、上司ではなく会社の仲間=同僚と思ったら見え方を変える事が出来るような気がしたのです。

 

同僚なら、自分より優秀だったり優秀じゃ無かったりする。

同僚なら、信頼できる奴も信頼できない奴もいる。

同僚なら、気の合う事だけ話せばいい。

 

仕事上で付き合うだけならば、こんなに気楽なんだと。利害関係が絡むから上司と部下という関係性は非常にめんどうなんだなと改めて感じたのです。
上司の恥が自分の恥になったり、一蓮托生で責任を取ったり…同僚とは違う立ち位置に居る事は間違いない。でも自分は自分なのだと。結局、誰に評価されたいのかと。誰のために仕事をしたいのかと。

結局は同僚とスクラムを組んでお客様に満足してもらう事が最終ミッションなんですよね。上司のくせにやらないとか、部下のくせに言う事を聞かないというのはお客様からは何も関係ない。それが表に出てきた段階で、お客様の事をないがしろにしてしまう危うさが有ります。

本当に目指す場所は自分たちの価値を認めて貰って、相応の対価をお客様から頂く事。上司と部下の線引きをしている場合じゃない。

 

しかし、査定は上司がするんだよなぁ。お金は会社から貰うんだよな。。。
むずかしいよなぁ・・・